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グルジアの歴史 |
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タマラ女王 (記念日:5月14日) |
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1166年、国王ギオルグ3世とお后ブルドゥハンの間にタマルという娘が生まれた。国王は娘が12歳になれば、そのときから娘と王位を共有すると宣言した。
宮廷の人々はもろ手を上げて賛成し、父娘は5年間、王国を共同統治した。1184年の国王の死後、貴族たちは若いタマルが国王にふさわしい魂の持ち主であることに気づいた。彼女は18歳で全グルジアの王となった。グルジア語でタマルは女王ではなく王と呼ばれる唯一の国王となった。
統治をはじめるにあたってタマルは教会の評議会を招集し、知恵と謙虚さを聖職者に求めた:「正義に基づいて判断し、悪を駆逐し、善を拡大」するようにと命じた。「私から始めよう。私に罪があれば王冠はぬがなければならぬ。貴族の富を認めず、大衆を貧困させることないように。あなたたちは言葉によって、私は行為によって、あなたたちは祈ることによって、私は法にのっとって、あなたたちは育ちによって、私は教育によって人々の面倒をみなければいけない。私たちはともに永遠の非難を逃れるために、神の律法を遵守しなければならない。あなた方は祭司として、私は支配者として、あなた方は神の下僕として、私は善の監視者として・・・」
教会と宮廷はタマルのための求婚者を探し出した。ウラジミル-スズダリ国の皇太子アンドレイ・ボゴリュブスキーの子息ユーリーである。(ロシア名ユーリーをグルジア語訳するとギオルギとなる)ギオルギは勇敢な兵士で、彼の指揮の下、グルジア軍は多くの勝利を得たが、結婚後、徐々に彼の粗雑な性格が知られるようになった。酒を飲みすぎては不道徳な行為を繰り返したので、宮廷は彼に多大な金額をかけて武装させコンスタンチノープルへ追いやった。
中東の多くの支配者たちはタマルの美しさに惹かれ、彼女との結婚を望んだが、タマルはそれをことごとく退けていたが、王朝の継続を願う宮廷の要望を受け入れて2度目の結婚を決意した。タマルは叔母(ギオルギ3世の妹)ルスダンに相手探しを頼んだ。ルスダンが選んだのはオセチアを支配する、ギオルギ1世(1014-1027)の末裔にあたるダヴィト-ソスラン・バグラチオンであった。
(つづく)
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