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グルジアの歴史 |
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13人のアッシリア人司教 |
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ヨアネ・ゼダゼン尊師と12人の弟子(6世紀) |
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ヨアネ・ゼダゼン司教と12人の弟子
アビボス・ネクレス
アントン・マルトゥコプ
ダヴィト・ガレジ
ゼノン・イカルト
タデオス・ステパンツミンダ
イセ・ツィルカン
ヨセフ・アラヴェルディ
イシドル・サムタヴィス
ミカエル・ウルンボ
ピロス・ブレティ
ステパネ・ヒルサ
シオ・ ムグヴィメ |
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は、アッシリア人の苦行者たちで、グルジアにおける修道院生活の創始者たちです。聖ヨアネはアンティオキでキリスト教を勉学したのちに出家し、荒野で隠遁生活を送った聖者です。彼の謙虚さ、真面目な断食、敬虔な注意深さを主は祝福し、疾病や悪魔を彼から遠ざけたのです。聖ヨアネの神聖な行為と奇跡を主は祝福したのです。好奇心に満ちた人々が聖ヨアネの周りに集まるようになり、聖ヨアネは人里離れた地への隠遁の必要に迫れられ、隠者生活を送るようになりました。
ある日、大尊師テオトコスが聖ヨアネの前に現れ、言いました。「12人の弟子を連れてグルジアへ行くように」「そこは、使徒ニノによって悟りを開いた国だが、もっとキリスト教を強化するように」と。そこで聖ヨアネは弟子の中からアビボス、アントン、ダヴィト、ゼノン、タデオス、イセ、ヨセフ、イシドル、ミカエル、ピロス、ステファネ、シオの12人を選び、グルジアへと向かったのです。残りの弟子たちは新修道院長にゆだねました。
神のお告げによって、聖なる尊師たちがグルジアへむかうべくメソポタミアの地にいることを知ったグルジア国王パルズマンとエヴラヴィオス大主教は、彼らを迎える準備を急いだのでした。
尊師たちはスヴェティスツホベリ教会でミルラの木の「生きている」柱とイエスの衣をあがめたのち、グルジア国内の聖所へと向かいました。
大司教エヴラヴィオスに賛美されて、尊師たちは異教の神殿がかつて立っていたゼダゼン山で祠を作り、祈り一辺倒の修道生活に入ったのです。
尊師たちのうわさを聞いた信者たちはゼダゼン山に向かい、隠者の生活に恋い焦がれ、ゼダゼン山は修験の山に変貌したのです。
ある晩、大尊師テオトコスが再び、聖ヨアネの前に現れ、「12人の弟子たちを国中に遣わして神の言葉を広めるように」と言いました。朝が来ると聖ヨアネは弟子たちに「主は私たちに、この国に信仰の種を蒔くように言われた。前に進んで神の言葉を伝えよう」と言ったのです。
聖ヨアネはイリヤ助祭とともに山に残ったのですが、ゼダゼン山には水場がなかったのです。聖ヨアネが神に泉をと、祈ると、主は山の頂上に「癒しの泉」を贈られたのです。1匹の熊がこの泉に水を飲みに来るようになり、聖ヨアネに馴れ、ゼダゼン修道院のガードマンとしての勤めを果たすようになりました。(今日でもゼダゼンの森の野獣たちは修道生活を妨げるような咆哮をあげないと言われています。)聖ヨアネの仲介によって、口のきけなかった者が話せるようになり、立ち上がることができなかった者が歩けるようになったのです。
神に仕えて長年が過ぎると、聖ヨアネは死が近づいているというサインを神から受け取りました。彼は弟子たちを呼び、死後は住んでいた洞窟に葬るように言いました。聖体拝領後、聖ヨアネは、天が開き、光輝く無形の聖なる軍隊を見ました。主は聖ヨアネを呼び、「最後の仕事をしてもらおう。おまえの魂を主に捧げるように」と言いました。
聖ヨアネの昇天後、弟子たちは、尊師が住んでいた洞窟はあまりにも陰気で尊師を葬る場所としてはふさわしくないと判断し、山のふもとの教会を墓所に選びました。しかし、立ってもいられないほどの地震が起こり、弟子たちが尊師の言葉に思い至り、これは神の怒りだと分かると、地面の揺れは収まったので、弟子たちと司祭と助祭は尊師の言葉通りに葬りなおすことにしました。その間、聖ヨアネの亡骸は人々の病と悪魔に魅入られた人々の魂を救済したのでした。
クレメント大主教(908~923年)の時代に、聖ヨアネの洞窟の南側に聖ヨアネ・バプテスト教会が建てられました。この教会の祭壇のそばに彼の墓があります。
聖なる殉教者のアビボス・ネクレスは、カルトゥリ王パルズマン4世と大司教エヴラヴィオスによってネクレス司教と呼ばれるようになりました。アビボス司教は多くの異教徒をキリスト教徒に改宗させたのです。
6世紀には強大な隣国ペルシアがグルジア人にキリストを否定し、彼らの風習に沿って火を崇拝するように強要しました。聖アビボスが彼らのいけにえの祭壇を清めようと水を注ぐ絵と、怒り狂ったペルシア人は石で強くアビボスに襲いかかり、死に至らしめました。ペルシア総督の命でアビボスの遺体は3日間、野ざらしにされましたが、獣も鳥も近寄りません。4日目にレチ修道院から修道士がやって来て、サムタヴィス修道院に聖なる遺体を移しました。のちに、聖アビボスの遺体は、正義を愛するステパノス王(600~619年)の命で、ムツヘタのサムタヴロ修道院の祭壇の下の聖域に移されました。
聖アントン・マルトゥコプは常に小アジアのエデッサから持ってきた「人間の手で作られたのではない」救世主のイコンを持っていました。
孤独を愛する聖アントンはロノアチ渓谷に住んでいましたが、彼の祈りや彼が起こす奇跡に惹かれて多くの信者が彼の静寂を破りに来ました。それで彼は信者のために修道院を建てて、アラザニ川の向こう側に隠遁しました。のちにアクリアニ山に移りました。隠れ家で彼はもっぱら野草や木の皮などを食していましたが、主は熊を遣わして食物を送りました。やがて彼は山の上に支柱を立てて、そこに18年間住んだのです。
死が迫りつつあるときに救世主のイコンの前で祈っていると神が言葉をかけました。弟子たちは支柱の上から亡骸を下ろし、彼が建てた修道院の聖母マリアのイコンの前に葬ったのです。
聖ダヴィット・ガレジはグルジアの新首都トビリシの郊外に住んでいました。不思議な説教で多くの拝火教の人々をキリスト教に導きました。
ある日、拝火教徒が復讐をしかけます。ある妊婦にお金を渡し、父親がダヴィットであると言わせたのです。そのとき彼は一人の弟子の手を妊婦のお腹の上に置かせ、胎児に話しかけたのです。「子供よ、主イエス・キリストの名において尋ねる。おまえの本当の父親は誰だ?」胎児は母の子宮の中から本当の父の名前を話したのです。これを見ていた人たちは異教徒の欺瞞に 怒り出し、姦計を図った人に石を投げ出しました。止めるすべも知らぬ聖ダヴィットは弟子ルキアネと立ち去ったのでした。
聖ダヴィットとルキアネは東南グルジアの荒涼たるガレジ地方に移住しました。主はたくさんの食物を与えていました。水曜日と金曜日を除いて毎日、鹿の群れがやってきます。ルキアネが乳を搾り、ダヴィットがその上で十字を切ると、乳はチーズになるのです。この噂はたちまちに広がり、荒涼たるガレジ地方はキリスト教苦行者たちの隠遁の地となったのです。
やがて東グルジアのニノツミンダ村からやってきた敬虔な修道士ドドは、神の啓示を受け、ガレジの東側に聖テオトコス修道院を建てたので、それ以来、ここは「ドド山地」と呼ばれるようになりました。
聖ダヴィットはエルサレムに巡礼に行きましたが、市の門の前までたどり着くと、中に入る価値はない、と判断しました。門前で熱心に祈り、敬虔な気持ちで3つの石を拾い、宝物として持ち去りました。その夜、エルサレムのエリアス大主教の前に天使が現れ、「グルジアからやってきたダヴィットという修道士が聖なる土地の全ての恵みを持ち去ってしまった」と告げます。大主教の遣いがダヴィットに追いつき、2つを持ち帰りました。3つ目はダヴィットがガレジの修道院へ持ってきたのです。
試練と苦難の連続でしたが、生涯を主に捧げ続けたダヴィットを神は嘉し、穏やかな最期を迎えた彼の
聖イセ・ツィルカンは聖ヨアネ・ゼダゼンの助言の下、エヴラヴィオス大主教によって聖別されたツィルカンの司教です。イセは説教を通して多くの人々を教化したので、彼の周りには支持者たちが集まってきました。イセは他のヨアネの弟子たち同様に、奇跡を起こす能力に恵まれていたのです。
あるとき、聖ヨアネは弟子たちの信仰の度合いを確かめようとして、それぞれに奇跡を起こして見せるように言いました。イセの番になると、彼はイサニ川へ下りて行って、川を越え、川に手をかざしながら叫びました。「主の名において命令する。私に従いなさい。」瞬時に川の水は逆流し始め、イセの手にあわせてツィルカン修道院まで川は延びていったのです。
これをまざまざと見ていた人々は真の信仰の力に驚き、キリスト教徒となったのです。
聖イセの遺体はツィルカンの聖テオトコス教会に葬られました。
聖ヨセフ・アラベルデイは救世主の「生命を与える」木から作られた十字架をいつも持っていました。聖ヨアネの祝福を受けて、聖ヨセフは東グルジアじゅうでイエスの教えを広め、やがて荒涼たるアラベルディに住み始めました。
あるとき、ヨセフは異教徒の貴族に出会い、恵みに満ちた神の言葉で説教をしました。深く感じ入った貴族はアラヴェルディに修道院を建てたのです。近隣の人たちはヨセフの偉業や奇跡を聞き及んで、ヨセフの下での生活を求め、苦行者となる人が増えていきました。
死期が近づくとヨセフは新しい修道院長を任命し、穏やかに神の下へ向かいました。今日でもアラベルディ修道院の彼の墓の周りでは様々な奇跡が起きると言われています。
若いときから聖ヨアネの弟子だった聖シオ・ムグヴィメはムツヘタの北西、サルキネチに住み、神の啓示を実践していました。
ある日、この近くで猟をしていた領主エヴァグレは、1羽の鳩がシオに食料を運んでいるのを目撃します。この奇跡とシオの修道生活に感じ入ったエヴァグレは位を捨てて、シオの弟子となりました。シオの周りに苦行を求める人があふれてきたので、シオはサルキネチに修道院を建てました。約2千人近くもの苦行者たちが集まったということです。
数多くの奇跡を起こしたシオは末期を自分が掘った井戸の中で暮らすことを神に誓いました。修道院の長にはエヴァグレを指名し、15年、井戸の底での祈りの生活を送ったのちに、主の下へ行ったのです。聖シオの亡骸はこの井戸に納められ、あたりでは今日でも多くの奇跡が起きているということです。
「懺悔する主の姿」と呼ばれる聖ピロス・ブレティはブレティのジュヴァリスツカリ川畔に修道院を建て、亡骸もそこに葬られています。
聖イシドル・サムタヴィスはカルトゥリ地方で長年、伝道し、レフラ川の東側に「人の手によらない」救世主のイコンがシンボルのサムタヴィス修道院を建て、亡骸もそこに葬られています。
聖タデオス・ステパンツミンダは初めにムツヘタで伝道を始め、のちにゼダゼン山のふもとに修道院を建てました。聖ヨアネの没後も全カルトゥリ地方で伝道を続け、新しい教会を作り続けました。中でもウルブニスの「ステパノ初の殉教者」教会が有名です。死期が近づいた彼はカスピの町から、それほど離れていないツレバ山の洞窟に隠遁しました。亡骸もそこに葬られています。聖ステパネ・ヒルサと弟子たちは東グルジアのカヘチ地方で伝道し、ハルアブジ城の近くにヒルサ修道院を建てました。彼の亡骸はヒルサの「ステパノ初の殉教者」教会の聖域に葬られています。
聖ゼノン・イカルトは北部カヘチ地方で伝道を続け、イカルト修道院を建てました。真の信仰を続けた後、穏やかに主の下へ行きました。聖ゼノンの亡骸はイカルトの「人の手によらない」救世主のイコンの教会に葬られています。
聖ミカエル・ウルンボは北部カヘチ地方とオセチアでキリスト教を伝道しました。ウルンボに修道院を建て、彼の亡骸もそこに葬られています。
http://www.pravoslavie.ru/english/7266.htm |
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